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「ダライラマの外交官 ドルジーエフ  - チベット仏教世界の20世紀 -」

(岩波書店)
ダライラマの外交官ドルジーエフ チベット仏教世界の20世紀ダライラマの外交官ドルジーエフ チベット仏教世界の20世紀
(2009/10/24)
棚瀬 慈郎

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アグワン・ドルジーエフはブリヤート人で19~20世紀にかけて内陸アジアで活躍した宗教者であり、外交官。ダライ・ラマ13世の信頼を受けてチベットの独立を守るためにロシアを訪れ、また後年はソヴィエト体制下での仏教の存続に尽力した。その足跡と内陸アジアにおけるチベット仏教の興亡を描く。


 タイトルを見て「なぜ、こんなロシア風の名前の人がチベットにいるの? しかもダライ・ラマの外交官?」

 ――疑問に答えて始まる評伝は、明快な語りに乗せられてあっというまに読んでしまった。面白かったです。

アグワン・ドルジーエフ(1854~1938) 
ブリヤート生まれ。名前はチベット語の「ンガワン・ドルジェ(ンガワン=文殊菩薩、ドルジェ=金剛)」と仏教にちなんだもの。遊牧民の子に生まれ僧侶となり、ラサの大僧院に学んで才覚を発揮する。通常20年以上かかる課程を10年、しかも好成績で終えて最高の学位を与えられ、ダライ・ラマ13世の指導役のひとりに選ばれる。


 前半は、ロシア、英領インド、清に囲まれていた19~20世紀初頭のチベットについて。
 当時、特にイギリスの進出を恐れたドルジーエフはチベットが独立を保つためにはロシアと結ぶ他にないと考え、ダライ・ラマの使者としてロシアへ赴く。しかし、1904年、英国武装使節団がラサへ侵攻する。

 周辺国それぞれのチベットに関する戦略方針がざっくりと語られています。

 ことに興味深かったのは、英印政庁と本国の意向が食い違う状態でラサ侵攻が行われていた、ということ。
 本国政府にはチベット占領の意思はなかったのに、インド総督カーゾンはチベット政府とラサ条約(賠償金の賦課、領土占領、など)を結んでしまう。現代風に言えば、国境ちかくの地方自治体のフライングだったらしい。
 結局、本国はこれを「承認した上で、『恩恵』により減免した」。この時期の三条約(ラサ条約(英-蔵)、英中協商、英露協商)の内容や意図は、法律に詳しい人ならなお興味深いのでしょう。その辺り、難しくて私にはついていけませんが。
 でも、アジアに首をつっこみ、三条約を結び、挙句に「大英帝国全体の利益が優先」とさっさと退場したイギリスという国のしたたかさには恐れ入りました。
 また、日露戦争や第一次世界大戦へ向かうヨーロッパ情勢がチベットの命運に関わっていたこと、そして、英露のグレートゲーム、のちには米中の駆け引きの間でチベットが二度も捨て駒にされた、ということには複雑な思いでした。


 そして、後半はドルジーエフのロシアでの活動について。
 清朝が斃れるとチベットとモンゴルは独立を宣言、1912年蒙蔵条約を締結。ドルジーエフは亡命していたダライ・ラマ13世がラサへ戻るのを見届けてから、故郷ブリヤートへ。その後、ロシア革命を経て、1922年ソヴィエト連邦が建国される。
 ドルジーエフは新体制下での生き残りをはかって、仏教界改革をこころみる。しかし、保守派やロシア正教徒との対立によって改革は思うように進まず。やがて、スターリン体制下で宗教弾圧は激化、ドルジーエフ自身も逮捕され、1938年に死去。1940年までにはソ連とモンゴルの仏教勢力はほぼ壊滅状態になってしまう。


 1911年には270年続いた清朝が、そのわずか6年後にはニコライ二世の退位で300年続いたロシア・ロマノフ朝が終焉――ドルジーエフがロシアへ向かった頃というのは、アジアの二大国は激変の時期だったのですね。
「300年続いた国体が変わる」ことを想像するのは現代日本人には難しい(感覚的に遡れるのは、せいぜい明治政府までの140年くらいかと)。けれど、かなりの衝撃ではあったはず。
 そんな中で、ドルジーエフが思い描いていた仏教世界はどんなものだったか。

 かつて内陸アジアのチベット仏教世界では、リンガ・フランカとしてチベット語が使われ、民族を越えて同じ価値観が共有されていた。

 ドルジーエフは、そこにナショナリズムを超えた、しかし政治的にもリアルな共同体を形成しようとした。

 思えば、ドルジーエフの生まれも経歴もまさにこんな世界を体現していたのかもしれない。
 彼の努力は生前にはまったくというほど実っていないけれど、チベット(と周辺)に将来の可能性を提示して見せた――大変な財産を残した人なのだと感じました。

(2010/12/5 読了)


目次

1 ラサへ
2 ダライラマ十三世の外交官になる
3 英国武装使節団、ラサを侵攻する
4 イフ・フレーから北京へ
5 ダライラマ十三世との別れ
6 ロマノフ王朝の崩壊
7 ソヴィエト体制下での活動
8 死
エピローグ
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  1. 2011/02/20(日) 23:16:32|
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