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「チベットの娘 ― リンチェン・ドルマ・タリンの自伝 ―」

(中公文庫) R・D・タリン 著   三浦順子 訳


チベットの娘―リンチェン・ドルマ・タリンの自伝 (中公文庫)チベットの娘―リンチェン・ドルマ・タリンの自伝 (中公文庫)
(1991/06)
リンチェン・ドルマ タリン

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原題「Daughter of Tibet」。チベット人女性として初めてインドへ留学し、その後西欧文化とチベットの橋渡し的役割を担ったリンチェン・ドルマ・タリン(1910~2000)の自伝。前半では、著者の自伝とともに20世紀前半のチベットの生活、信仰、政治など旧チベット社会を描く。後半では占領下のラサの様子、中国訪問の旅、インドへの亡命について書かれている。

第一章 我が家の背景
第二章 父と長兄の暗殺
第三章 ラサで過ごした子供時代
第四章 母の死
第五章 チベット女性として初めてダージリンに留学する
第六章 最初の結婚
第七章 タリンの公子のもとに嫁ぐ
第八章 田舎の荘園生活
第九章 権謀術数うずまくラサ
第十章 チベットの祭りとダライ・ラマ十四世のラサ入り
第十一章 チベットの習慣と信仰
第十二章 前摂政レティンの失墜
第十三章 チャムドの陥落と中国の侵攻
第十四章 ラサの恐怖
第十五章 ダライ・ラマ法王に随行して中国を訪問する
第十六章 チベット、中国にはむかう
第十七章 1959年3月のラサ決起
第十八章 命からがらインドへ
第十九章 ブータンで足止めをくわされて
第二十章 チベット難民の子供の教育に携わる
エピローグ


 以前に一度絶版になったものの、リクエストによって単行本が復刊されています(私が読んだのは1991年出版の文庫版)。

 初読時には、インド留学していた少女時代の思い出話が印象に残りました。
 買い食いが楽しくてやめられなかったとか、季節の行事の準備の様子などがユーモアある文で語られていて面白かったです。
 明るくて負けん気が強い、しかし少々わがままなお嬢さんの姿が可愛らしい。この少女が成長して、やがて愛する家族と別れ、厳しい旅の末にインドへ辿りついて難民の子供の教育に携わるようになる。何という大変化だろうと思いつつ、それでも周囲への心配りをし続けた様子には何ともいえない静かな感動を覚えました。
 また、女性は政治には関わらないので、そのような話題には傍観者としての意見しか述べられていません。しかし、傍観者ではあっても「わたしはこう思う」という言葉がまっすぐな印象で、強さを感じました。

 そして今回、再読してみて興味をもったこと、ひかれたこと。

 旧チベット社会について。
 土地は政府の所有物であり、貴族や僧院に対して荘園が貸し出されたこと。
「貴族:農奴」という単純な封建社会ではなく、有力貴族を頂点に小貴族や富農、小作人がいて、それぞれに労働や納税の義務があり、同時に財産所有や利益が保障されたと書かれています。
 ことに小作人と土地所有者との関係について、主人の畑・自分の畑で働く日が区別されていたり、灌漑用水すら均等に分けられていたということには驚きました。
 また、職人たち(鍛冶屋、靴屋、大工など)の各ギルドの長は政府高官に列せられる、貧しい者でも僧となって出世することができるなど、いわゆる「上昇」の道もそなえた社会構造だったことがわかります。

 一方で、著者の身内の超堕落(笑)僧侶や貴族同士の権力争い・腐敗のエピソードも描かれています。いろいろな人間がいるのは当然のことで、それを内包できるだけの成熟した社会だったという点に興味がわきました。
 裕福でなくても衣食は足りており、不作の年には政府の備蓄穀物が放出されたこと。また、仕事の前に祈りを捧げるなど仏教が人々の心に浸透していたとも書かれています。
 過去のチベットについて語る著者の言葉は簡潔です。

中国人が来るまで、チベット人は幸せな民族であり、それなりに快適な生活を送っていました。
生活様式にはさまざまは欠点もあったでしょうが、人々は心みちたりてのんきに生きていました。


 著者は有力貴族の家柄ですから、貧しい生活をどれだけ知っていたかはわかりません。
 ですが、インド亡命時には使用人が家族を置いてまで著者に付き添ったこと、またタリン家の義父が悪路を行く際に、地元民が背負ってあげたいと言ったエピソードなどからは、主人に対する親愛の情が伝わってきます。
 少なくとも、搾取する者・される者という言葉だけでは括れない関係があったのだと思います。

 結婚制度について。
 多くのチベット人は一夫一婦であったけれど、家族の絆を強めるために一夫多妻、一妻多夫を行うこともあったそうです。
 正直いえば、「姉二人の夫と、妹も結婚」「姉の一人は、数年後に他の男と結婚することになっている」という状況はさっぱり理解できないのですが。
 面白いな、と思ったのは、ツァロンの妻である著者と妹チャンチュプ・ドルマがシッキムのタリン家の兄弟と縁組した時の話。

 最初はタリン家のジグメーからチャンチュプ・ドルマへの申し込みだったのですが。 これを、ジグメーと著者の縁組にして、ジグメーがラサに来てはどうかと提案してみる。これに対してタリン家は、息子をそちらにやることをできないが、ジグメーの弟とチャンチュプ・ドルマを結婚させて(つまり、兄姉と弟妹が縁組)シッキムに来てくれると嬉しい、という。

 ……くどい説明ですが、本当にこういう話なのです。

 そして、ツァロンはこの話に『乗り気だった』そうなのですよね。
 どうやら、「家」のための結婚ではなく、「つながり」のための結婚なのでしょうね。それも、つながる数が多ければなお良いという感じでしょうか。
 どういう文化なのか、わからないなりに興味がわきます。
 こんな結婚をした著者と夫ジグメーですが、穏やかで幸せな関係だったようです。狩猟をめぐる夫婦の会話は微笑ましかったです。

 そして、第二次世界大戦下、世界中がレーダーや戦闘機、核兵器を抱え込んでいた時代。こんな国もあったのです。

1939年当時、ラサでは多くの人々がラジオを持っており、日々世界のニュースを聞くこともできました。また、第二次世界大戦が終了して、平和宣言がなされるまで、チベット全土の僧院では、戦争の終結を祈る法要がおこなわれていました。

 何だか不思議な気分になりました。
(2003/7/25読了 2008/6/27再読)
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  1. 2008/06/29(日) 16:53:05|
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